2011年6月10日金曜日

仙台、地震、そして家族(3)





震度4の地震が度々襲ってくる。
関西に住む僕の感覚では、これはもはや余震ではない。

余震の中、僕はただただ母とテレビを見続けた。
ひかりTVでバルサの試合を見たり、Fリーグを見たり。
これはいつも実家で僕が取っていた行動である。
ただ以前のように普通に過ごした。

夜は帰宅した父から震災後の1ヶ月の話を聞いた。

3月11日の翌日から仕事に向かったこと。
3日後からは担当エリア(東北全域)の被災地を見て回ったこと。
正直見て回るような余裕はなく、復興に向けた事務所をどこに設置するかしか考えられなかったらしい。(父は某建設会社勤務)
父の会社の住宅は寄せては返す津波に耐えたらしい。
お客さんの中には、津波によって無くなっていく街の中で自分の家だけが残っている様子を高台から見ていた人もいるそうだ。

父はあの日から毎日作業着を着て出社している。


そんなこんなで、滞在期間はあっという間に過ぎてしまった。
仙台市街は既に賑わいを取り戻していた。
少しでも復興に貢献したい思いでカバンに入るだけのお土産を買った。

結局何も助けにならなかったのではないかと罪悪感を感じながら帰路についたが、
母からメールが届いた。

「久しぶりに普通に過ごせてホッとしました」

今回行って良かった。そう思えた。
ボランティアさえ出来なかったが、家族を安心させてあげられることは僕にしか出来ないことだ。



あの日から間もなく3ヶ月が経とうとしている。
現地はどうなっているのだろう。
ニュースもだんだん取り上げなくなってきているし、
トップニュースは某総選挙である。

被災地に家族・知人がいる人には、是非顔を見に(見せに)、行ってあげてほしい。
そうでない人も、是非東北に遊びに行って、お金を落としまくってほしい。

一刻もはやく皆様に平穏な日々が訪れることを祈っています。

2011年5月26日木曜日

仙台、地震、そして家族(2)



歩道はマンホールの部分を残して、多くの場所で陥没している。
津波で流された車は車道の端や、歩道に置かれたまま。
それを避けながら、自衛隊の車とトラックが走る。

瓦礫の中に船が浮かぶ。

そこにあるはずのものが、そこにはなく、
そこにないはずのものが、そこにある。

津波が到達したであろう境界線に立つ。
なぜここが境目なのか。
なぜここが運命の分かれ目だったのか。
その線を境に明らかに世界は違っていた。

そこから被害にあった場所ではなく、被害を免れた場所を見に行った。

子供たちは楽しそうに鬼ごっこをしている。
お母さんは笑いながら世間話をしている。
おばあさんは新たに畑を耕し始めている。

下校中の中学生は体操服にヘルメットを被ってチャリに乗ってるし、
女子たちは買い食いしながら集団で歩いてる。

高校生は腰パンで歩いてるし、
大学生は前髪をいじりながら就職の話をしている。

いつもの生活を取り戻して、取り戻そうとしていた。

仙台駅に到着すると、たくさんの人で賑わっていた。
駅周辺のビルはタイルが落ちたところは多かったようだけど、
大きな被害はなかったようす。

両親の住むマンションもタイルが剥がれ落ちたり、コンクリートに亀裂が走っているところもあったけど、既に診断もしているらしく問題ないそう。

地震で家具が全て倒れ、テレビは割れ、食器類が割れてぐちゃぐちゃになったと聞いていた家は、
すっかり片付いていた。壊れている家具がいくつかあったけど、全損判定を受けた部屋とは思えない。

が、母親の顔を見て話を聞いていると、やはり精神的に傷を負っていた。
断続的に続く震度4クラスの余震と、テレビでひたすら流される津波と被災地の映像。
「その映像をずっと見ていると、地震の怖さを思い出すのと、助かって普段通りの生活に戻りつつある自分が避難所で生活している人に申し訳なくなり涙が出てくる。」と母は言った。

メールや電話では、「大丈夫」と繰り返していた母も被災していたのだ。

僕は翌日から被災地を見てまわる事を止め、滞在中は家族と過ごすことに決めた。


(3)に続く

2011年5月21日土曜日

TOWA TEI "SUNNY"

テイさんのニューアルバムっす。
最高っす。




データ版→mach

2011年5月20日金曜日

仙台、地震、そして家族(1)


4月中旬仙台に行ってきたので、そのことを少し。

仙台には両親が住んでいる。
もちろん3月11日あの瞬間も仙台にいた。

地震の直後、幸いにも母親と一度だけ電話が繋がり、両親の安否は確認出来ていたものの、
度重なる余震もあり、母親からは「仙台には来るな」ばかり。

それでも両親の顔を見ずにのほほんと暮らしているのは、やはりやり切れず、
一ヶ月が経ち、ようやく仙台に向かった。


空から見た仙台空港周辺は本当に別世界だった。
まるで空襲の後のようだった。
涙がでた。

仙台空港は再開したとの事だったが、一歩空港から外に出れば、
瓦礫の山。


しかし、それは瓦礫なんかじゃなく、
ひとつひとつに記憶が宿っていた。

記憶のひとつひとつが、そこらじゅうに散らばっていた。


そう、建築には記憶が宿るのだ。

建築家が設計したものであれ、ハウスメーカーが建てたものであれ。

その記憶の宿った建築は一瞬でバラバラにされてしまった。



そこにあるのは、強烈な記憶の破片と建築の弱さ。


仙台空港から海岸線を北上し、仙台市街へと歩いた。

仙台空港周辺には瓦礫の仮集積場が設置され、そこに向かうダンプカーと自衛隊の車でいっぱいだった。

歩く人は殆どおらず、砂埃の舞う道をひとり歩き続けた。


(2)へ続く