2011年5月26日木曜日

仙台、地震、そして家族(2)



歩道はマンホールの部分を残して、多くの場所で陥没している。
津波で流された車は車道の端や、歩道に置かれたまま。
それを避けながら、自衛隊の車とトラックが走る。

瓦礫の中に船が浮かぶ。

そこにあるはずのものが、そこにはなく、
そこにないはずのものが、そこにある。

津波が到達したであろう境界線に立つ。
なぜここが境目なのか。
なぜここが運命の分かれ目だったのか。
その線を境に明らかに世界は違っていた。

そこから被害にあった場所ではなく、被害を免れた場所を見に行った。

子供たちは楽しそうに鬼ごっこをしている。
お母さんは笑いながら世間話をしている。
おばあさんは新たに畑を耕し始めている。

下校中の中学生は体操服にヘルメットを被ってチャリに乗ってるし、
女子たちは買い食いしながら集団で歩いてる。

高校生は腰パンで歩いてるし、
大学生は前髪をいじりながら就職の話をしている。

いつもの生活を取り戻して、取り戻そうとしていた。

仙台駅に到着すると、たくさんの人で賑わっていた。
駅周辺のビルはタイルが落ちたところは多かったようだけど、
大きな被害はなかったようす。

両親の住むマンションもタイルが剥がれ落ちたり、コンクリートに亀裂が走っているところもあったけど、既に診断もしているらしく問題ないそう。

地震で家具が全て倒れ、テレビは割れ、食器類が割れてぐちゃぐちゃになったと聞いていた家は、
すっかり片付いていた。壊れている家具がいくつかあったけど、全損判定を受けた部屋とは思えない。

が、母親の顔を見て話を聞いていると、やはり精神的に傷を負っていた。
断続的に続く震度4クラスの余震と、テレビでひたすら流される津波と被災地の映像。
「その映像をずっと見ていると、地震の怖さを思い出すのと、助かって普段通りの生活に戻りつつある自分が避難所で生活している人に申し訳なくなり涙が出てくる。」と母は言った。

メールや電話では、「大丈夫」と繰り返していた母も被災していたのだ。

僕は翌日から被災地を見てまわる事を止め、滞在中は家族と過ごすことに決めた。


(3)に続く

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